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名刺の歴史中国編
名刺の起源にはさまざまな説がありますが、一般的には中国が発祥とされています。
そもそも名刺とは何なのでしょうか?
辞書を引くと名刺はこのように載っています。
ー名刺ー
《「刺」は、昔、中国で竹木を削って名前を書いたもの》
氏名・住所・勤務先・身分などを印刷した長方形の小形の紙札。※ デジタル大辞泉より
どこに所属する誰であるかを記した紙であるということですね。そして、「刺」は名刺のルーツである名前を記した木片であることが分かります。
現在の中国では名刺のことを「名片」と呼ぶそうです。一方の日本では、古代中国にならって今なお「名刺」という言葉を使っているのは大変興味深いですね。
「刺」について
さて、今回はこの古代中国のコミュニケーションツールである「刺」についてのお話です。
「刺」が元々どのように使われていたか、理解を深めるためには、まず「謁」についてご紹介せねばなりません。
謁は刺より以前から名刺のように使われていた交際用の木の札です。
その歴史は古く、少なくとも秦の後期まで遡ることができます。
『史記』巻九十七・酈生陸賈列伝第三十七には次のような一節があります。
單父の人呂公、沛の令に善し、仇を避け、之に從ひて客たり、因つて沛に家す。沛中の豪桀の吏、令に重客有りと聞き、皆往きて賀す。蕭可、主吏と爲り、進を主る。諸大夫に令して曰く、進千錢に滿たざるは、之を堂下に坐せしめん、と。
高祖、亭の長たり。素より諸吏を易る。乃ち紿きて謁を爲りて曰く、賀錢萬、と。實は一錢も持たず。謁入る。呂公大いに驚き、起ちて之を門に迎ふ。呂公は好みて人を相す。高祖の狀貌を見、因つて重く之を敬し、引き入れて坐せしむ。
蕭可曰く、劉季は固より大言多く、成事少し、と。高祖、因つて諸客を狎侮し、遂に、上坐に坐し、詘する所無し。酒闌にして、呂公、因つて目して固く高祖を留む。高祖、酒を竟へて後る。呂公曰く、臣少きより好みて人を相し、人を相せしこと多けれども、季の相に如くは無し。願はくは季、自愛せよ。臣に息女有り。願はくは季が箕帚の妾と爲さん、と。酒罷む。呂媼、呂公を怒りて曰く、公、始め常に此の女を奇とし、貴人に與へんと欲せり。沛の令、公に善し。之を求むれども與へざりき。何ぞ自ら妄に劉季に許與せし、と。呂公曰く、此れ兒女子の知る所に非ざるなり、と。卒に劉季に與ふ。呂公の女は乃ち呂后なり。孝惠と魯元公主とを生む。
【通訳】 山東省の単父の呂公という人が、沛の県令と親しかったので、嘗て人を殺したために、その仇を避けて県令の客になって沛に住んでいた。沛中のおえら方の役人たちは、県令のもとに珍客があると聞いて、皆で出かけていって祝賀の宴を張った。蕭可は沛県の主吏であったが、このとき世話役として進物をつかさどり、おえら方の参会者に向かって、「進物が千銭に満たない人は、堂下に坐っていただきましょう」とさしずした。
高祖は亭長であった。もとより諸役人を軽蔑していた折だったので、このときも欺いて名刺をつくって、「お進物一万銭」と申し出た。しかし、実は一銭も持参していなかった。名刺が通じられると、呂公は進物の多いのに驚いて、みずから起って門まで出迎えた。呂公は好んで人の相を観る癖があった。高祖の容貌をみて、その常人でない人相なので、丁重に敬意を払って引き入れて座につかせた。これをみた蕭可は、「劉季はいつも大法螺を吹いているが、何も為し得たことがない」といって、呂公の扱いに反対したが、高祖はもとから諸客を軽蔑していたから、ついに上座に坐って少しも屈するところがなかった。酒宴が半ばを過ぎた頃、呂公は目くばませして、かたく高祖を引きとめたので、高祖派その意を覚り酒宴が終わっても居残って退出しなかった。その高祖に呂公は、「わたしは若い時から人相をみるのが好きでした、すでに多くの人々の人相を観ましたが、未だ足下の相に及ぶ者はありません。どうか自愛自重されて、大事に志されたい。また、わたくしに娘がありますが、どうか、足下の掃除婦としてお使いください」と言って、早くも婚姻の約束をした。酒宴がすっかり終わった。呂公の妻の呂媼は、怒って、「あなたは前からいつも、この娘は常人とちがうから貴人に嫁がせたいと思っておられたでしょう。沛の県令はあなたと親しい方でした。その方が、娘をほしいと求められても、おあげになりませんでした。どうして、妄りに劉季なんぞにおやりになるのですか」と、呂公を詰った。呂公は「これは、女子どもの知ったことではない」と、答えて、ついに娘を劉季にあたえた。この呂公の娘が呂后となった方であり、高祖に嫁して後、孝恵皇帝と魯元公主とを生んだのである。
史記 二 (本紀) 吉田賢抗・著 より抜粋
この一説には、高祖――『項羽と劉邦』で有名な後漢の初代皇帝・劉邦のことです――とその妻・呂后(呂雉)――こちらも中国三大悪女として知られる凄まじいお方です――の結婚の経緯が書かれています。
ざっくり簡単にまとめると、これは県の長官を頼って移住してきた呂公の歓迎の宴での一幕です。
手土産として「千銭」以上持参しなければ座敷にも通してもらえないリッチなパーティーに、高祖は無一文にも関わらず出向いていき、「お進物一万銭」と大嘘の名刺を提出します。
あまりの額に驚いた呂公は高祖を門までお出迎え。
呂公は人相を見てその人となりを判断するのが得意だったのですが、高祖を見るなり「こいつはただものじゃない! 将来絶対大物になる!」と確信します。
ついには周囲の反対を押し切って、かわいい娘を高祖に嫁がせることにしました、というお話です。
ここで高祖が呂公へのお目通りがかなったきかっけが、「お進物一万銭」という名刺――謁です。
謁は自身で持参し、拝謁を願うための道具でした。
高祖が呂公へ提出した謁は残っていないので、どんな細かい情報が書かれていたのか――もしくは大雑把な情報が書かれていたのか――は分かりませんが、誰が提出したものかは分かるように、最低でも姓名と金額が書かれていたのは確かでしょう。
現存する謁に書かれている文章は、「拝謁を願う道具」という性質からか、とても丁寧で規範的。訪問者と拝謁者、どちらの身分も姓名も書き記し、来訪の理由まで記載されています。相手の身分が自分より低いか高いかを問わず敬語を使うという徹底ぶりで、古代中国の官僚社会の「拝謁お伺い札」(コミニュケーションツール)として広く使われていました。
一方の名刺の語源となった「刺」は後漢の頃から使われだしたとされています。 謁より幅が狭く、細長い刺は、木材の消費量から考えると非常にエコ。それに加えて記載される内容も、訪問者の姓名・字(あざな)・本籍・爵級と「問起居(ごきげんいかがですか?)」という挨拶文のみ。持ち主のプライベートな情報のみが書かれている点は今の名刺に通ずるところがあります。 刺の使用場面は「訪問通知札」といったところ。相手を訪ねて不在だった場合などに、門前の専用箱や地面に刺を刺し、訪問したことを告げるために使われていました。 自分の名を刺すから「名刺」というわけです。 記載する内容は自分の情報のみでよいため、古代中国のお墓からは何枚も同じ札が出土されることも多いとか。これは訪問理由までこと細かに明記しなくてはならない謁との大きな違いです。 片や堅苦しい「拝謁お伺い札」、片や気楽な「訪問通知札」。 伝達手段が限られていた古代中国においてその利便性から、刺は官僚社会にとどまらず庶民にまで広がっていくことになります。
参考:呂静程博麗・著 / 江村知朗・訳『漢晋時期における名謁・名刺についての考察』